福岡の展示装飾・ディスプレイデザイン

展示会とは何か(4)


last updated on April 30 2020
Designer
Ken E.G

産業の発達と博覧会
 
 産業や経済の発達は展示会と大きく関わる。国内における展示会開催を促した。この産業展は新しい建築やディスプレイ技術の向上に大きく寄与したと考えられる。
 

ブックフェアのイメージ
Manfred QueisserによるPixabayからの画像

 
1)新しい技術の誕生に伴う展示会
◆ドイツ/Frankfurt Book Fair
 ドイツ人グーテンベルクの発明(1445年ごろ)による活版印刷の技法がヨーロッパ中に普及したのは言うまでもない。フランクフルトの「本の見本市」がいつ始まったかについてはいくつかの情報があるのではっきりしないが、1478年とされる。この時印刷業者の売り込みの記録があるという。その後、1480年ごろには110の町で印刷されるようになった。さらに、1400年代末には236箇所にまで拡大し、3,5000版の本が流通していたというからこの展示会の果たした役割は大きい。主な印刷拠点は、フランスのリオンやストラスブール、スイスのバーゼル、ドイツのライプツィッヒとフランクフルトだった。
 「Frankfurt Book Fair (英)FairFrankfurter Buchmesse(独)」がかつての市(フェア)と異なるのはその対象を本に特化し、印刷の普及を目的としている点だ。これは現代の展示会開催の考え方に通じる。
 
 しかし、ブックフェアは検閲機関による監督下に置かれるようになり、17世紀末にフランクフルトから統制の緩いライプツィッヒでの開催に移行した。第二次世界大戦後の1949から元のフランクフルト開催になり、500年以上の歴史を誇る。(WWIIの間は中止)
 
 世界最大の本の展示会では発売発表だけでなく4,000の講演、討論、パネル、プレゼンテーション、授賞式、その他のイベントが開催され、版権の販売交渉やネットワークづくり、マーケティングなどにおいて重要な役割を果たしている。約275,000人の訪問者が集まり、そのうち10,000人の認定ジャーナリストがいるという。
◆資料
『The Evolution of the Book』
『A History of the Frankfurt Book Fair』
『The Geomantic Year: A Calendar of Earth-Focused Festivals that Align the Planet with the Galaxy Paperback – November 16, 2006』
『The Frankfurt Book Fair: 16th century to 2016』
 
 
 
 
 2)国内の産業振興や技術発展を目標に開催された展示会
 
◆フランス/Exposition des produits de l'industrie française
 18世紀末から19世紀前半にかけてのイギリスにおける産業革命により、フランスでは工業に関する展示会が開催されるようになった。これは、イギリスに対抗する意図もあった。Mr. Arthur Chandlerによれば、フランス革命が終焉に近づいた1798年、フランス・パリで開催された「Exposition des produits de l'industrie française(フランスの工業製品の展示)」にはフランスで生産される製品に関わる110名の発明家や実業家が出展して競った。それまでの行われていたフェステバルを活用し新政府の設立(共和国建国記念)を祝う目的もあったが、産業革命による成長が顕著なイギリスに抗する国内産業の促進を図る意図もあった。政府に提案したのは内務大臣François de Neufchâteauである。この展示会のパンフレットには、「イギリスの工業産業と同等の製品の供給ができる製品」と書かれていた。
 イギリスは1774年から1825年まで国内で生産される工業機械の海外輸出を禁止していたので、フランス国内における工業化のための発明や製品開発が急務だったと思われる。この「フランス産業博覧会」には、製鋼や紡績綿、ボンネット、医療機器から陶器、鉛筆などが出品・展示され、メトロノーム時計が金賞を獲得した。その後も「フランス産業博覧会」は1849年まで11回開催され、1855年のパリ万博につながる。
 
 ◆アメリカ/American Institute Fair
 フランスの産業展から30年ほど遅れてアメリカでも同じような展示会が開催されている。1829年から97年までニューヨークで開催された「American Institute Fair」もまた、国内の産業促進とイギリスから保護する目的があった。New York Histrical Society Musuum & Libraryによると「American Institute」が設立された1825年のフェア(第1回)ではニューヨーク州・ニュージャージー州・ニューイングランドからの出展にとどまったが、1831年には346のエントリーがあり、1850年(第23回)では、2,000以上のエントリーにまで拡大した。(この産業博覧会が開催された1829年から1897年の間に南北戦争をはさんでいる)農業、商業、製造、芸術の4分野があり、工業製品のほかに絵画や彫刻、ぬいぐるみなども展示され、競った。家内製造から商業生産への移行を特徴とし、モースの電信やコルトの拳銃のデモンストレーションの場所も提供している。
Guide to the Records of the American Institute of the City of New York for the Encouragement of Science and Invention 1808-1983 (Bulk 1828-1940)

 
◆ドイツ/Hamburg Craft and Industry Production
 ドイツでも19世紀前半から工芸製品から工業製品を目指す展示会が開催された。1832年、ハンブルクで開催された「Hamburg Craft and Industry Production」が求めたのは、象嵌をはめ込んだ棚や曲線美溢れる机ではなく、シンプルで組み立ての簡単な食器棚や机だった。フランスやアメリカの展示会と異なるのは、工業製品のカタチを提示し工業化を目指した点にあるといえるだろう。
この展示会は1834年と1838年も行われ、1863年の「International Agricultural Exhibition」では10日間で14カ国から20万人の来場者を集めるほどになった。ところで、1880年代から始まった「アーツ アンド クラフツ運動」はこうした工業化デザインへの抵抗だったのだろう。資料;Hunburg Messe+Congress
 
 ◆日本/内国勧業博覧会
  アメリカでのAmerican Institute Fair」の開始から48年後、わが国でも内国物産や美術・工芸の展示会が開催された。「内国勧業博覧会」は、明治期、殖産興業政策の一環として開催された博覧会だ。国策として1877年から1903年まで合計5回、東京・京都・大阪で開催されている。「西欧の先進技術を導入することによって、国内の産業を振興させ、国力を増強する」のが目的だった。そして海外の万国博覧会のおけるディスプレイデザイン技術の導入でもあった。
 
 我が国で最初に万国博覧会を見学したのは、竹内保徳を正史とする文久遣欧使節団(1862)だ。福澤諭吉福地源一郎らも含まれていた。1862年に開催された第2回ロンドン万国博がそれにあたる。
 我が国で大政奉還が申し出させた1867年のパリ万国博覧会にはフランス皇帝ナポレオン三世から参加の招請を受けた。江戸幕府のほか薩摩藩、佐賀藩が出品し、ジャポニズムのきっかけとなった。
 政府として初めて出展した万国博覧会は1873年のウィーン万博だ。「1,300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。産業館にも浮世絵や工芸品を展示し、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いた。」
(国立国会図書館:1873ウィーン万博)
 1876年開催のフィラデルフィア万国博覧会にも出展し、大久保利通や西郷従道といった明治政府の関係者も訪れている。また、有田焼の「色絵雲龍文耳付三足花瓶」という装飾された大きなペアの壺は金牌賞を獲得し、有田焼は輸出の機会を拡大させた。
 

 
内国博覧会
 
 
 
 
 
 
内国博覧会写真
 

 

 
明治時代の内国勧業博覧会
開催年 内国勧業博覧会 開催地 入場者数 開催期間
(月)
出品者数
1877(M10)  第一回内国勧業博覧会 東京・上野 454,000 3.3 16,000
1881(M14) 第二回内国勧業博覧会 東京・上野 822,000 4.0 28,000
1890(M23) 第三回内国勧業博覧会  東京・上野  1,024,000  4.0 77,000
1895(M28) 第四回内国勧業博覧会 京都・岡崎 1,137,000 4.0 74,000
1903(M36) 第五回内国勧業博覧会 大阪・天王寺  4,351,000 5.0 118,000
1907(M40) 東京内国勧業博覧会 東京・上野 7,463,000 4.3 17,000 
『博覧会の政治学』吉見俊哉より

 
 こうした経験を通して、1877年に東京上野公園を会場として「第一回内国官業博覧会」が開催された。我が国で西南の役があった年だ。「工芸の進歩を助け、物産貿易の利源をひらかしむにあり。徒らに戯玩の場を設けて遊覧の具となすにあらさるなり」というのが内国博覧会の趣旨であり、「珍しき品物たりとも、すべてかたわらの鳥獣虫魚又は古代の瓦曲玉書画等の類はこの会に出すへからず」といった注意書きがあるように、それまでの見世物や開帳とは明らかに異なる"新しいモノ"を集めて見せる展示会だった。実際、開始当初の展示には、薬品・陶磁器・織物・生糸・洋品・理学機器・製糸機会・蒸気機関・軍艦の模型・電信装置・扇風機・鉛筆などがあった。そして優れた製品には賞牌・褒状等が授与され、産業奨励の契機となった。
 
 第一回では蒸気機関車や臥雲辰致のガラ紡機、第二回はガス塔が人気だったという。第三回では東京電灯株式会社による日本初の路面電車が会場内を走った。第四回には水族館のはしりとなる水槽展示が珍しがられたが、淡水魚の展示に止まった。大阪・天王寺で開催された第五回は外国のパビリオンや娯楽性も加わりそれまでの展示が大きく変化する。日本初のエレベー付きの遠望楼やパノラマ館、そして大人気だったウォーター・シューターが登場した。アトラクションの登場は、その後の博覧会に大きく影響を与えた。

資料:東京国立博物館『博覧会の政治学』吉見俊哉

 
 同時にその建築スタイルも新しいカタチであり、ディスプレイ技術も生かされた。東京上野では広場の正面に時計台が設置され、中央に噴水池が配置された。それをとりまくように中央奥に恒久施設としての煉瓦造りの美術館が建設され、美術館の両脇に機械館・農業館・園芸館や各地の特産を紹介する展示施設など6地区設けられた。また別に動物館も隣接させた。それらは回廊型になっており、連続して展示物をみることができる仕組みだった。乃村工藝社の『ディスプレイ100年の旅』によると、この回廊型の会場構成は後の内国勧業博覧会においても踏襲されたという。
 
 石川敦子氏の『資料から見るランカイ屋と装飾業の歴史』によると、第一回内国勧業博覧会から工芸品類はガラスケース(展示箱)を使った展示だったという。初回は1,000箱以上のケースを必要とし、その製作には家具屋が対応していたという。また、『日本装飾小史』(創元社2006、清水章)によると、博覧会の展示ケースは1890年(明治23)の第三回内国勧業博覧会の頃から出品者負担による陳列箱が見られるようになり、手の器用な職人や画塾の学生たちにより製作されていたとする。明治時代、博覧会は内国勧業博覧だけでなくたくさん開催れていたのでその需要は高く、博覧会を得意とする家具業・貸物業・百貨店・看板業・街頭宣伝業などを誕生させた。中には現在も活躍している企業もある。
 
 ビール会社の出展はこの博覧会が産業奨励だけでなく、企業ブランドの向上を図るのに寄与したことが分かる顕著な例だろう。ビール会社は品評会でプレステージを獲得するために競争した。第三回内国勧業博覧会(1890)での出展は80点以上にのぼり、味を競っている。受賞は何社かあったが、キリンビールとその年に設立されたばかりの恵比寿ビールが「最良」の評価を得ている。アサヒビールは1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会で最優秀賞を受賞している。すなわち博覧会における受賞は企業ブランドを高めるための一手法でもあった。
 博覧会ではビアガーデン等で販売もされ、第三回内国勧業博覧会でキリンビールは醸造用の大きなビア樽をディスプレイしたという。また、第四回内国勧業博覧会におけるアサヒビールの西洋風の建物と樽の装飾や第五回内国勧業博覧会での巨大な樽型を模した恵比寿ビールの建物にもディスプレイによるブランド訴求が垣間見れる。
資料:国立国会図書館/『明治十年内国勧業博覧会場案内』 (1877)キリンビール『(3)博覧会とビール』アサヒビール/『大阪麦酒時代の宣伝広告(後編)』『ディスプレイ100年の旅』乃村工藝社
 
 桑田正三郎による『第四回内国勧業博覧会写真』高木秀太郎による『第五回内国勧業博覧会』の写真集では、テーマパークのゲートを思わせる装飾された楼門やショーケースを使った展示が確認できる。内国博覧会は次第に規模を拡大し、大阪・天王寺の第五回内国博覧会では海外のパビリオンだけでなく、快回機(メリーゴーランド)やウォーターシューター、地上54メートルの「大林高塔」(エレベーター)、パノラマ館、おびただしいイルミネーションも初登場し、会場は娯楽化していく。
 
 大林組の創業者である大林芳五郎が設計建設したので「大林高塔」と呼ばれたこの望遠楼は高さ45mもあり、我が国初のエレベータで昇降した。こうしたメガイベントにおける目玉(シンボル)の重要性も認識されたのか、1907(明治40)年の「東京勧業博覧会」では空中回転車(観覧車)が登場し、1914(大正3)の「東京大正博覧会」では遊覧架線空索道(ケーブルカー)や自動電気昇降機(エスカレーター)がお目見えしている。『東京勧業博覧会案内』(精行社出版部)を
こうした非日常空間の演出はディスプレイの技術に他ならず、明治の文明開化をカタチにして見せる役割を果たしたといえる。
 
 
 

1)ウォーターシューターは前年(1902年)のグラスゴー万国博を真似たもので人気が高かった。明治36年6月10日の『風俗画報』によると高さ40フィート(約12m)、長さ314尺(約95m)あり、小艇に乗って滑り降りた。
 
2)パノラマ館は1890年(明治23)、浅草公園内に渋沢栄一と大倉喜八郎が建てたのが最初で、同年博覧会会場にも建設された。高さ18m、周囲144mの16角形で、高い場所からパノラマの観覧ができた。浅草の内容は「アメリカ南北戦争図」、博覧会は「奥州白川大戦争図」だった。
以上『図説・明治事物起原事典』湯本豪一

 

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