福岡の展示装飾・ディスプレイデザイン

展示会とは何か(3)

日本における近代的展示のはじまり


last updated on April 30 2020
Designer:Ken Egami

1)博覧会の流行

 

 「博覧会」という用語は栗本鋤雲(外国奉行)が考案したとも、福沢諭吉の『西洋事情』(1876 慶応2年)によるものともされる。1862(文久2)年に編集された『英和対訳袖珍辞書』(堀達之助)の中に「博覧」=「Book-learning」という言葉がある。そんな言葉はあまり聞かないなと思ったが、どうもあるらしい。「1.広く書物を読み、見聞すること。2.広く一般の人々が見ること。」とある。博覧の結果が博学になる感じだ。でも、Book-learningとは「本からの知識」、「机上の学問」であり、見てるのは本だけ。少しばかり開きを感じる。ところが、明治時代になると実物をたくさん並べ、見ることによる学習方法を明治政府は推進した。それは博覧会の開催であり、まさしく「博覧」行為である。これは、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任し、万博に派遣された佐野常民の澳国博覧会報告書』で使われている「眼目ノ教」という言葉に託されていた。
 
 この当時使われていた展示会の名称には、物産会・共進会・博覧会・展覧会などがあった。『英和対訳袖珍辞書』のExhibitionは「顕す、戯場の舞台、執行のため学問所へ送るための子供への送金(exhibitonには奨学金の意もある)」、Expositionは「開いて置く、解き明かす」、Dispalyは「顕す」とある。意味合い的には正解だろうが、「展示」という用語は使われていない。「幕末・明治初期漢語辞典』にも「展示」や「展示会」は載っていない。おそらく、展示という考えは後に使われるようになったのだろう。
 
 佐野常民とは別に、ウィーン博覧会に立ち寄った岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』の中に、「エキスビジョン」という言葉が出てくる。この時、初めてExhibitionの意味を知ることになったのかもしれない。
 
 だから、この明治時代の展示会のほとんどは博覧会だった。東京や大阪、京都で開催された内国勧業博覧会と称する極めて大掛かりな博覧会から地方での展示会のようなものまであった。地方開催の品評会を兼ねた展示会の多くは共進会だったが、地方官庁主催だけでなく中央官庁もあり、その規模によって使い分けられていたようなので区別が難しい。
 
 博覧会も共進会も品評会の側面があったが、結局は様々な品々をたくさん集めて見せる展示会である。とにかくたくさんの品々を集めた大共進会や大物産会、大展覧会が当時の人にとっての博覧会だった。
 そして、我が国で博覧会の冠をつけた展示会は明治時代に驚くほど多く開催されている。石井研堂の『明治事物起源』(コマ179)には明治45年(1912)から47(1914)年にかけて博覧会が大流行したと書かれているが、『わが国博覧会の歴史と変遷』百崎誠氏は1871(明治4年)から(明治45年)の40年間に122回の博覧会が実施されたという。

(2)我が国における初期の博覧会
 民間開催の京都博覧会
 
 

最初の京都博覧会
flickr/takashi yamauchi
 

 我が国で最初の博覧会は、1871(明治4)年10月11日から11月11日までの33日間に京都・西本願寺書院で開催された「京都博覧会」である。この時、我が国で初めて「博覧会」を冠した展示会が開催された。会主は京都の豪商である三井八郎右衛門、小野善助、熊谷直孝といった民間人で、西洋で開催された博覧会を模倣することにより来場者の知見を広げたいというコンセプトだった。入場者数は11,211人、266両の利益を出したという。
 
 『Illustrated London News』に掲載されたイラストを見ると、展示物は甲冑や生活用品など様々だ。展示台と観客とはパテーションで区切られ、ゾーニング計画がされているように見える。しかし、展示物が台上に雑然と並べられている様子からすれば、展示コストが大きく影響したかもしれない。この展示方法は源内たちが開催した「物産会」の展示とさほど変わらない。計画にも問題がありそうだ。実際、開会の2日前に入場券の販売だけでなく展示品の募集も行っている。そして、時間が足りなくて準備不足だったという報告もされた。
 
 報告というのは次回開催に向けて京都府に提出した開催願だ。そして京都府の援助を受けた半官半民の「京都博覧会会社」が設立され、「第一回京都博覧会」として開催されることになった。京都博覧会は1871(明治4)年から1928(昭和3)年までの間に56回開催され、規模や期間の違いはあったが、ほぼ毎年開催の恒例イベントだった。
 
 京都博覧会は産業振興及び技術発展を目標とし、第四回(明治8年)から競争原理による技術向上を図るため優れた品への褒賞授与が開始されるようになる。これは1877(明治10)年に開催される「内国勧業博覧会」のコンセプトや制度を先取りしていた。しかし、内国勧業博覧会が新しい技術や表現を求めたのに対し、京都博覧会は年代物の骨董や美術品も受け付けるという違いがあった。この点について、開帳や見世物とあまり変わらないイベントである、という評論もある。だが、第一回京都博覧会から「附博」として茶会や都踊り、烟華(花火大会)、能楽といった京都らしい催しを組み込んだイベントプランができている。開帳のように見世物小屋や飲食店がでたかは分からない。しかし、それまでの祭礼とは全く異なる、今日行われている行政や団体を主催とする恒例フェスティバルの嚆矢という見方もできる。
 
 さらに展示品の販売も可能だった。京都博覧会では「理由のある非売品を除き販売を前提とし展示をおこなっており、数多くの品物が博覧会を通じて売却された」とする研究もある。外国人の日本国内旅行には外務省が許可した免状が必要な時代だったにもかかわらず、購入者の中に外国人がいた可能性もあるという。1871(明治 4)年、京都府は博覧会観覧目 的の外国人の入京許可を正院に上申し、外国人に向けた宿や外国語パンフレット、琵琶湖遊覧といった外国人の受け入れ体制も整えている。300人から500人の外国人が訪れていたそうだ。
 そして、豊富な骨董や新・古美術がある。明治初期における日本美術の海外輸出は流出という言葉にも換言されているが、土地柄を活かした京都博覧会は我が国ではじめて開催された「インターナショナル・トレード・ショー」の側面もあったのかもしれない。
 
◆参考資料
『明治初期京都の博覧会と観光』工藤泰子
『明治京都における官製「美術」概念の受容』京都の博覧会と美術商・「美術館」をめぐって/山本 真紗子
『京都博覧会沿革誌』/京都博覧協会 明治36.12/国立国会図書館
甘楽町(外国人旅行免状のイメージを見ることができる)
『博覧会の政治学』まなざしの近代/吉見俊哉

湯島聖堂博覧会
 

湯島聖堂博覧会
湯島聖堂博覧会
『博覧會諸人群集之圖 : 元昌平坂ニ於テ』/昇齋一景 筆国立国会図書館デジタルコレクション
 
湯島聖堂博覧会
明治5年に開催された湯島聖堂博覧会の展示
『古今珍物集覧』一曜斎国輝
東京国立博物館

 
 1871(明治4)年の「京都博覧会」が民間主催だったのに対し、その翌年の1872年(明治5)、文部省博物局による「湯島聖堂博覧会」が開催された。開会時には「物産会」という名称だったが、博覧会に改称されたという。一曜斎国輝の絵の表題が『古今珍物集覧』とされているように、展示物は古いものから新しいものまで集められた。この博覧会は次の年に開催されるウィーン万国博覧会に向けてのプレイベントとして役割があった。要するに日本を代表する品々を集めて見せ、その反響具合から出品するものを決めようという意図があったと考えられる。その結果、上図に描かれている名古屋城の金鯱もウィーン博で展示されている。20日間の開催予定だったが、あまりに盛況のため28日延長された。48日間の総入場者数は192,878人だったという。
 
 
◆ショーケースの登場
 この博覧会の特徴の一つはショーケース(display case,vitrine)の登場だ。昇斎一景の絵(上図)を見ると、ガラス張りと思われるショーケースが整然と並べられている。"vitrine"とよばれるガラス張りのショーケースはすでに18世紀のヨーロッパに登場していたので、日本にあっても不思議ではないが、これだけ多くの展示ケースが並んだのはおそらく日本初に違いない。
 中から外を見た上の二枚目の絵には魚が展示されているが、水槽ではないだろう。魚が実際に入った水槽展示が見られるのはこの12年後に開催された第三回内国勧業博覧会の時だ。東京国立博物館の説明によれば、山椒魚を入れた水槽もあったという。それでも皮膚呼吸が大半をしめるサンショウウオは皮膚を湿らしておく必要があるので、水槽づくりには相当苦労したに違いない。
 
 ところがその当時、国産の板ガラスはまだ無かった。旭硝子により、我が国で板ガラスが本格的に製造されるのは1909(明治42)年だ。明治時代、煉瓦造りの洋風建築の流行により板硝子の需要は急激に伸びたというが、石井研堂さえも「洋風建築のホテルや銀行にはあるのだろうが、硝子障子というものを見たことがない」と述べている。税関のサイトによると、明治時代の神戸港における輸入品目について、ガラス板やセメントが主要輸入品として加わるようになったのは明治20年からという。湯島堂博覧会の開催はその10年以上も前になる。おそらく、この博覧会で使われたショーケースは相当高価だったに違いない。そして、この5年後に開催された「第一回内国勧業博覧会」の時に、ガラスケース製作の募集があった。その時に集まったのは家具職人だったというので、これもまた家具職人の手によるものと考えられる。
 
◆展示棚の工夫
 上図下の一曜斎国輝のによる『古今珍物集覧』に見られる自立型展示棚は展示を考えたつくりとなっている。この絵が実際の棚と同じかどうかは分からないが、ディスプレイデザインの仮設性を反映し、よく考えられているように思える。
 この時代まで、住宅での棚づくりには「四十八棚(しじゅうはったな)」に代表される伝統的な造作方法が残っていた。しかし、そうした伝統的なデザインは排除され、シンプルにできている。パネル同士に角度をつけることで自立させ、足をつけることで容易に移動もできる。現代のディスプレイデザインに通じるデザインといえる。
 
 ◆目玉展示

金鯱
昇斎一景1872
金鯱
『御物金鯱之図』

 展示会や博覧会には目玉展示が必要だ。この博覧会会場の中央に展示された金鯱はその役割を果たした。昇斎一景は金鯱に驚いた様子の人たちを描いている。実に名古屋の金鯱は特に人気だったという。
 
 聞いたり知っていながらも見たことないモノの展示はニュースになる。大きければさらに印象強い。マスコミもニュースにしやすいだけでなく、口コミも生まれる。今日のインスタのような効果がある。来場者が多すぎて整理できずに会期が延長になったのもこの金鯱展示の効果かもしれない。
 
 この名古屋城の金鯱の雌は翌年のウィーン万国博へ、そして雄は石川、大分、愛媛、名古屋、京都など各地の博覧会を巡回することになった。巡回展のテスト飛行のような存在で、「全体を金で包み、目玉と歯は銀、瞳は赤胴で作る。高さは八尺七寸、尾の開きは〜」といったチラシまで発行されている。
 
  この博覧会は多岐にわたるカテゴリーで構成されたテーマなき展示会だったが、今日の博物館における常設展示を思わせる。実際、東京国立博物館によれば、この展示会を博物館の創設・開館としているのだそうだ。我が国の近代的なディスプレイはこの博覧会で一歩を踏み出したといえる。

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